好き、と呟かれたその言葉に嬉しさよりも何よりも思わず硬直してしまった。
似ても似つかない彼女と花楠の姿が重なって見えたのだ。
重なる筈もない面影と幻影に思わず息を呑む。
そんな動揺した自分に今、目の前に居る彼女は気づいてしまったらしく。
表情を曇らせた彼女は曖昧な笑みを浮かべてその場を後にした。
なんてね、と本気の気持ちを冗談にしようとした不器用な優しさを残して。






臆病な僕に再び最愛と幸いと







「なぁーにやってんの?」

軽く戸にもたれながら立つ悟浄が少しおどけながらも鋭い口調で尋ねてきた。
来た事にすら気づいてなかった僕は少し目を見開いて驚く。

「悟浄・・・いえ・・・」

だが、直ぐに視線を足先へと向けた。
彼女を傷つけてしまったであろう事から湧き上がる罪悪感。
それによって自分を責め続ける僕の気持ちを知ってか知らずか
悟浄はゆっくりとこちらに歩み寄ると隣のベッドへと腰掛ける。
対面する様に向かい合った所で暫く沈黙が続く。
その沈黙を破ったのは悟浄だった。

「・・・ちゃん、走ってたからよく見えなかったけど、ありゃ泣いてたぜ?」

咎めるでもなく、責めるでもなく、悟浄はただありのままを説明する。
逆にそれが僕にとっては苦痛だった。
いっそ責め立ててくれるならば僕は自己嫌悪に陥るだけで済む。
それはとても楽な事であると自分でも理解しているし、
きっと悟浄もそれを理解した上で敢えて責める事はないのだろう。

「そう、ですか・・・やはり、傷つけてしまいましたね」

自嘲しながら苦々しい笑みを僕が浮かべれば
悟浄は煙草を手馴れた手つきで一本取り出して愛用しているジッポで火を点した。
紫煙が部屋に漂い燻るその光景を僕はただ見つめた。
ゆらゆらと燻る薄煙の奥で悟浄が溜息にも似た吐息を吐き出す。

「で?今回は何しちゃった訳?何となーく状況的に判るけどさ」

彼女が去っていた扉を視線だけで示す悟浄の言葉に一呼吸置いて呟いた。

「・・・彼女に、花楠を重ねて見てしまったんです」

目の前で組んだ手にぎゅっと力が無意識に篭る。
呟いてしまえばまた彼女の傷ついた顔を思い出して、胸が疼き痛む。
悟浄は少し眉根を寄せて複雑そうな表情を浮かべた。

「・・・似てなかったんじゃねぇのかよ?」
「ええ、全くと言っていい程似てません。ただ、好きだと言われたその瞬間、花楠と彼女を重ねてしまったんです。
何故なのかは僕にも、判りません。でも、彼女は花楠と重ねられた事に気づいたみたいでその言葉を誤魔化すように部屋から出ていったんです」

彼女は勘の鋭い人だからきっと些細な僕の表情の変化に気づいて理解したのだろう。
でも、ただ、僕が自己嫌悪をしているのは彼女を紛れもなく愛おしいと想っている気持ちがある故なのだ。
花楠と同じく・・・否、花楠以上に愛おしいと想っているのだと思う。
だからこそ、あんな顔をさせてしまった自分が恨めしく、憎らしい。

「で?」
「はい?」

ふいに黙っていた悟浄が口を開いた。
何かを問い掛ける様な唐突な言葉に僕は顔を上げて目を丸くする。
視界に広がったのは真剣な悟浄の紅い瞳。
迷う事なく、射抜くように注がれる視線に僕は微かな怒気を感じた。

「お前はちゃんにそう言われてどう思ったんだって聞いてんの」
「それは・・・」
「好きなんだろ。ちゃんの事」

全部判っているんだと言わんばかりの悟浄の発言に僕は肯定の言葉を言い淀む。
すると、悟浄は溜息を吐いて立ち上がり、短くなった煙草を灰皿に押し付けた。

「なぁ、八戒。今、大事なのはちゃんに面影を重ねてしまって傷つけてしまった事を後悔する事か?
違うだろ。それよりもお前がしなきゃなんねぇのはちゃんを追い掛けて自分の今のありのままの気持ちを伝える事じゃねぇか?」
「悟浄・・・」
「大体さ。自己嫌悪した所で結局は逃げだろ。
もう一つ言うならお前が面影を重ねちまったのは同じようになる事を恐れているだけなんじゃねぇか」

彼女を失くす事を怯えているが故にこの場から動く事なく、自己嫌悪に陥っていると矢継ぎ早に述べる悟浄の言葉に押し黙る。
それはあるかもしれないと否定出来ない自分が確かに居たから。
だが、果たして自分が行った所で今の彼女を再び傷つけるだけなのではないかとも思う。
そう惑う僕に気づいているのかいないのか悟浄は逸らせない程、真摯な瞳をこちらに向けた。

「納得したんならさっさと追いかけろよ。追いかけねぇんだったら俺が行くぜ?」

悟浄なりの励ましなのか、悟浄も彼女を想っているのかは今の僕には考える余裕はなかった。
気づけば立ち上がり、そのまま扉まで足早に歩く。
そして、戸に手を掛けて一度足を止めると振り返る事なく、一言だけ紡いだ。

「ありがとうございます。悟浄」
「・・・はっ!俺はお前の為じゃなくてちゃんの為にしただけだよ」

素直じゃない返答を聞きながら足早にその場を後にした。
今はただ、彼女に会いたい。
会って自分の中にある気持ちの全てを伝えたい。
それがこんな僕を愛してくれた彼女へ捧げれる全てだから。
宿の外に出て彼女が行きそうな場所を捜す。
こんな時だからきっと静かな場所に居るんじゃないかと宿の裏手へと回った。
すると、予測した通り、芝生の上に腰を下ろして膝を抱える彼女の後ろ姿が見えた。

「・・・さん」
「!?は、八戒・・・?どうしたの?そんなに急いで・・・さっきの事なら・・・」

決してこちらに顔を向けずそう紡ぐ彼女の姿を見てやっぱり泣かせてしまったと胸を痛ませる。
だけど、ここで臆していては先程と同じなのだと僕は意を決して近付いた。

「すみません」
「え・・・?」

一言そう謝罪して彼女の後ろで膝立ちになると彼女に腕を回した。
身を少し固くする彼女の様子を感じながら僕は肩に顔を埋めてゆっくりと思いの丈を紡いだ。

「僕は臆病だったんです。過去に・・・過去に花楠を失くした事を未だに引き摺って失くす事ばかり考えて。
だから、さんが僕に好意を抱いてくれている事を知った時、僕は貴女に花楠の面影を見た」

彼女が軽く俯くのを感じながら僕は一呼吸置いて再び口を開く。

「全くと言っていい程、貴女と花楠は似ていない。でも、重ねてしまった。それを悟浄に諭されてしまいました。
人に言われて漸く気づくなんて我ながら情けないんですけど僕はさんを失くすのが怖かったんです」
「え・・・?」

彼女の二回目の疑問を訴える声。
そのまま驚きのあまり振り返った彼女と視線が交じり合う。
> 少し赤くなってしまっている瞳と頬の跡が確かに彼女が涙していた事を物語っていた。
それすらも今の僕には酷く愛おしく思えた。
身体を一度離して、互いに向き合うと僕はその頬にそっと手を伸ばした。
白く柔らかなその感触と優しい温もりを確かめる様に一撫でして微笑む。

「僕はさんの事を愛しているんです。きっと花楠以上に」
「八戒・・・」

反応が一体どう返ってくるかなんて予想できなかった。
こんな情けない自分を晒して、もしかして、愛想をつかされるかもしれないとも思えたし。
だけど、彼女は涙を流しながら笑っていた。
とても綺麗なその笑みはこの胸に言い様のない幸福をもたらす。

「私は八戒を臆病だとも情けないとも思わないよ。だって、全部含めて八戒は八戒なんだから。
私が好きになった八戒は人を失う事を酷く恐れている心優しい人だから。だから、蔑むよりも酷く愛おしいと思うよ」

頬に添えた手の上に彼女の手が重なる。
嗚呼、本当に彼女に釣られてしまったのか視界がぼやけてくる。
そんな様子を悟られない様に彼女の腕を引いて抱き寄せた。
少し驚いた彼女であったがすぐにくすりと笑いを浮かべて身を預けてくる。
それがやっぱり堪らなく愛おしくて僕は抱き締める腕に力を強める。
離すものか、失くすものかと己の心に刻み付ける様に。



この腕に新たな最愛と幸いを。
(初めて感じた温もりは誓いと幸いとをこの心に刻み付ける。)