記憶を失くした君はどこか虚ろで雨に打たれながら壊れそうな身体を抱いていた。
まるで今にも壊れそうな硝子細工のような君に。
僕は言い知れぬ感情を抱いた。
そして、僕はただ一言だけ告げた。

「ねぇ?行く所がないなら着いて来なよ」






囚われてしまったのは僕







ただ一つ名だけを覚えて君はそこで呼吸を繰り返していた。
打ち付ける雨で奪われる体温を感じながら。
未だにその光景を鮮明に覚えている。
その灰色の世界で息づいていた君は何より色鮮やかで美しかったのだから。

。紅茶」
「はい。今持ってきます。恭弥」

敬語に不釣合いな名の呼び方。
名を呼び捨てにしていいと言ったのは僕自身。
彼女にだけ特別に与えた権限だ。
僕は彼女にそれほどまでにのめり込んでいた。
自分でも驚くほどに。
そんなことを思い返している内にリビングにが戻ってきた。

「恭弥。持ってきました。紅茶と今日、初めて作ったクッキー」

最近、料理の本を一生懸命見ていると思ったらお菓子作りに興味を持ったのかと納得する。
僕はにはやりたいことを好きなだけすればいいと言っていた。
だから、興味の持ったことを彼女は進んで色々とやる。
今日のクッキーもそうなのだろう。
出来はどうかわからないがたぶん美味しいのだと思う。
彼女は元来料理や家事が得意らしく、僕の家の全ての家事をまかせてある。
というかやりたいらしいのでやらせている。
なのできっと初めて作ったクッキーでも上手くできていることは容易に想像できたのだ。

「ふぅん。いいよ。食べてあげる」

僕がそういうとパァッと顔を綻ばせて紅茶を注ぎ、カップとクッキーを勧める。
入れられたカップの紅茶の芳香と甘い香りが辺りに漂う。
僕はじっと見つめてくるを横目で見つつもクッキーに手を伸ばした。
見た目は本当に店でも売っていそうな感じだ。
そんな風に冷静に分析しつつ一口齧りついた。
サクリとした感触と共に甘く芳ばしい味が広がる。
はっきり言ってかなり美味しい。
僕は、まだ心配げに見ているに向かって一言だけ告げる。

「美味しい。初めてにしては上手くできてるよ」

その言葉を聞くと忽ち嬉しげにニコニコと微笑む。
ころころと変わる表情を見てこういう所が飽きないなと思った。

「よかったです。恭弥が喜んでくれて」

そう言って本当に嬉しげに笑うを見て僕はふと手招きをした。
すると、素直に僕の座っているソファに近寄り隣に腰掛ける。
疑問符を浮かべてこちらをきょとんと見つめるに僕は視線を向ける。

「口を開けて」
「あーん?」

可愛らしく口を開けて少し小首をかしげる。
そんなの口の中に食べかけのクッキーを放り込んだ。
少し驚いたが直ぐに素直にサクサクとクッキーを食べる。

「どう?」
「おいしいです。甘くて」
「本当に君は素直だね。ほら、僕だけじゃこんなに食べ切れない。君もカップを持ってきて紅茶を飲みながら食べるんだよ」
「!はいっ!持ってきます!」

もし、僕が言わなければずっと僕が食べるところを見ているつもりだったのだろうか。
そんなことが頭に過ぎった。
が、彼女ならしかねないという結論に至る。
そして、パタパタとまたこちらに向かってくる足音を聞いてまた一つクッキーを口に放り込む。
嬉しげに笑いながらカップをことりと置いて紅茶を注ぐ

「ねぇ?」
「はい?」
「今度は和菓子を作ってよ」

僕がそう要望を言うと和菓子をなんだったのか思い出しているのか少し無言になる。
そして、ぱっと思いついたと言わんばかりに手を打つとにっこりと笑って了承の返事を告げる。
彼女は僕に何かを頼まれたりするのが嬉しいらしく、また料理本を引っ張り出そうとするのでお茶をしてからにしろと言い聞かせる。
すると、また素直に頷いて僕の隣に戻って紅茶を飲もうとカップに口をつけた。
その愛らしい姿に頭を撫でてやるとまた笑顔を浮かべる。
まるで子供のように無邪気な彼女。
彼女に会うまでには考えもしなかったこの温かな時間。
この時間を居場所を手放したくないと思う自分がそこにあって微笑を浮かべる。
最初は彼女の為にだったその時間。
しかし、今では僕の為にある時間だ。
僕が彼女と言う優しい温もりに触れる時間。
記憶を失くした彼女でなくてもきっと僕は彼女を想っただろう。
そう思うほどに彼女は僕の心の大部分を占める存在になっていた。


「はい。なんですか?恭弥」
「君はここ以外に居場所なんて作らなくていい。僕の傍にずっと居ればいい。わかったね?」

自分勝手な言葉だとわかっていながらもそう告げる。
しかし、彼女は嫌がる所か喜んで「はい」と告げた。
嗚呼・・・本当に愛おしくてたまらない。
静かに過ごす穏やかな時間の中、ただ君を想う僕がそこに居た。



(虚ろで空虚な君を満たしているのは僕だと思いたい。)