「なぁ、姜維。魏の朔姫の噂を聞いた事があるか?」
「朔姫?それは人の名ですか?」

酒を飲み交わしていると不意に馬超殿が尋ねてきた。
朔姫というからには高貴な身分の名だろうかと思ったがそれならば一度は耳にした事がある筈。
異名だろうと高を括ると杯の酒をまた一献煽った。






月光の刃







「知らないのか?なら、教えてやるよ。朔姫ってのは異名だ。
月の無い夜の様な冷酷さと漆黒の艶髪を持つ大層美人な女武将らしいぜ」

元は魏に所属し、その後に蜀へと帰順した身である私は記憶の中にある魏の武将を思い返すが覚えがない。
だが、漆黒の艶髪と聞いて思い出した人物が居た。
嘗て共に戦場を駆けた幼馴染の存在だ。
女性ながら武芸に長けており、その剣の腕を気にいられて自分よりも先に出世した幼馴染である。
彼女の髪は絹糸の様に輝く艶やかな漆黒の長髪でそれは美しかった。
魏より蜀に帰順したその後、一度再会したが結局、仲違いとなってしまった。
私は蜀で大望を果たすと心に決めていたし、彼女も魏の曹操の治める世を見る為に剣を振るうと心に決めた。
蜀と魏。
絶対に交わらぬ道へ互いに歩みを進めてしまったのだ。
最後に会ったあの日、私と彼女は本当の意味で道を違えた事を互いに理解した。

「次に再会した時、私は貴方の敵。それを忘れないで」

そう言って去ろうとする彼女の背を見てもう一度口を開く。

「本当に蜀には・・・」
「いかない。私は曹操様を主と見定めた。あの方は誰よりもこの乱世を理解している」
「そうか・・・残念だ」

戦いたくなどない。
幼き頃から大切だった彼女をいつか斬る時が来るなんて思いたくなかった。
だけど、それはきっと必ず来る。
彼女もそれを理解していたのか最後にもう一度振り返った。

「姜維。最後にこれだけは言っておく・・・私に貴方を殺させないで」
・・・だけど、それは・・・」
「あくまで願いよ。きっと、それは叶わない。だから、口にするのはこれが最初で最後よ」

そう告げると彼女は踵を返し、今度こそ去っていった。
その背を見つめて願わくば自分も彼女を殺したくはないと強く願った。
あれからもう数年が経っているとは思えない程、鮮明な記憶だ。
感傷に浸った所でどうにかなるものでもないな、と顔を上げると馬超殿がまだ朔姫の噂話を語っていた。

「女でくそ長い太刀を振るってるなんて想像つかないよなぁ」
「そういえば・・・一度、その方と刃を交えた事が・・・
確かに男にも勝る実力の持ち主だったし、朔姫とはその方かもしれないですね」
「へぇ、趙雲は会った事があるんだな。名前を知ってるのか?」
「ええ、確か・・・という名だったと思いますよ。本当に強い方で結局引き分けてしまったが」

不意に紡がれた胸中の人物の名前に思わず杯を落とした。
落下音に弾かれる様に私を見た御二方は驚いた様子でこちらを見る。

・・・?」
「何だ?姜維の知り合いか?」
「・・・いえ、昔馴染みと言うだけですよ」

明らかに嘘と判る声に二人は少し心配そうに見つめてきた。
だが、私は曖昧な笑みを浮かべて両手を振った。

「本当ですって!ほら、御二方ももっと飲んで下さい!さぁ!」
「あ、ああ・・・」
「大丈夫なら宜しいが無理は・・・」
「大丈夫ですよ。お気遣いありがとうございます」

きっぱりとそう告げれば趙雲殿もそれ以上は踏み込んで来なかった。
朔姫の
そんな異名がつく程に名を馳せて彼女は未だに魏に忠義を尽くしているのだな。
空を見上げると眩く輝く月に彼女が重なる。
穏やかにまだ私に向けて微笑みを掛けてくれていたあの彼女と。
私はそれを振り切る様にまた一献酒を煽った。




「何を見ているのだ?
「月を見ていただけよ。元譲。それより、その名で呼ばないで」

不機嫌そうに眉を歪めると持っていた杯の酒を飲み干す。
元譲は愉快そうに笑いを漏らしながら、その迎いに座った。

「誰にも呼ばせなくなった本名には何か意味があるのか?朔」
「・・・別に、もう必要ないから朔で充分だと思っただけよ」
「そうか。だが、孟徳はそうは思っていないようだがな」
「曹操様は本当に口が軽いのだから・・・聞いたなら改めて聞かないでくれる?」

更に不機嫌になった私の杯に元譲が酒を更に注いだ。
揺らぐ杯の中に月が映る。

「そう怒るな。俺はそんなお前だからこそ信頼しているのだからな。
愛する男よりも忠義を尽くす事を選んだお前だからこそな。死喰いの朔姫」
「死を喰らう朔月の姫―――なんて難儀な異名をつけて下さったのかしら。曹操様も」
「孟徳はお前を本当は妾にしたがってるから異名は一種の束縛なんだろうさ」
「・・・言っておきますが忠義は尽くしますが妾にはなりませんから」
「くくっ、孟徳に伝えておこう」

愉快に笑う元譲を横目に見て再び月を仰げばその光は眩しく瞳に焼きつく。
月は嫌いだ。
あの別れの時も月光が眩かったのだ。
だから、月の日には姜維を思い出す。
いつか刃を交える相手だと理解しながらも。


信念を選んだ二人の行く末。
(愛し合いながらも二人は互いの道を歩き続ける)
(いつか十六夜月の様な鋭い刃を向ける事になろうとも)