逆境に立たされてこそ人は強くなると言う。
これを乗り越えればまた新たな強さを手に入れるのは確かなのだろう。
だけど、私はまだ未熟な人間で大人に成り切れず、
身に降りかかる重圧に潰されそうになっていた。
この身の滅びすら願ってしまう程に。






春の夜の夢の如く







眠れずにふらりと城中にある庭園を歩いていると一本の桜の木に辿り着いた。
桜花乱れ舞うそこはまるで桃源郷の様な光景が広がっていた。
この世のものとは思えないその桜に魅入られたのか私は木に寄り添う様に自然と腰を下ろした。
両膝を抱えて顔を埋めれば静寂が包むそこは闇だけが存在する場所となった。
だけど、不思議と温かい気がしたのはその桜があるからだろうか。

(もっと、もっと強く在らねばならないと言うのに、私は・・・)

それでも心を潰そうとする自責の念に私は心苦しめられる。
別に何かを失敗した訳ではない。
だが、幾ら成果上げたとてまだ若年だという事で責められる。
逃げたくなっても家を継ぐ身としてそれは許されない。
八方塞の袋小路で私はどうしようもなくただ佇むだけ。

(もう、嫌だ・・・)

力強く閉じた瞳の端から雫がぽたりと膝に落ちる。
全てを流してしまえばきっと楽なのだろうけれど、
それすら出来なくて声に為らない何かを吐息と共に吐き出す。
すると、不意にふわりと優しく柔らかな何かが頭を撫ぜた。
私は驚き泣き顔もそのままに顔を上げると柔らかな慈しみの笑みがそこにはあった。

「どうかしたのか?少年」

桜花を背景に微笑むその人はまるで桜の精を思わせる様な神秘的な雰囲気を纏っていた。
だが、決して鋭くなく、柔らかな雰囲気だった。

「貴女は・・・?」
「私か?通りすがりの女官とでも思ってくれ。
ほら、細かい事は気にせずに何かあったのなら話してごらん?」

質問には答えずにさらりとまた質問で返答を返すその人。
普段の私ならば疑い、剣を向けたかもしれない。
だけど、そんな心の余裕など今はなかった。
壊れそうな心を必死に繋ぎとめている今の状態に余裕などある筈がなかった。
私は不思議なその女人の魅力に魅入られてしまったかの様に
口を開く事が自然だと言わんばかりに胸中の想いを告げた。

「辛いんです・・・」
「辛い?」
「はい・・・私は、強く在らねばならない。一族の為に強くなって力を手に入れなければならない。
その為に努力は怠っていないのに人は中々認めてくれない。一層頑張ってみても結果は同じ。
行き詰った私には今や呼吸をする事すら強く感じてしまってどうしたらいいのか判らないんです」

誰にも話せなかった心の内をあっさりと名も知らぬその人に吐露した事に驚きつつも
それ以上に吐き出した言葉と共に押し寄せてきた感情が自分を支配した。
そして、止め処なく瞳から零れ落ちる雫が私の両の手を濡らしていく。
恥ずかしいとかそんな感情はなく、ただ、悲しく、苦しく、辛い感情のみが心を満たしていく。
そんな私を目の前の人は顔を顰めるとふわりと腕を伸ばし、私を包んだ。
甘く優しい香りが私の肺を満たしていき、心が少しずつ穏やかになるのを感じた。

「強く在らずとも良いのだよ」
「え・・・?」
「強く在らずとも優しいその気持ちがあれば良いのだよ。
無理をすればそれは結局自分の心を壊す凶器になる。あるがままに生き、己が道を進めばそれでいい」

幾度も往復する掌が髪を撫ぜ、慰める。
言葉と共にその掌から伝わる優しさが心を癒していく。
心地良さに私は涙に濡らした瞳を伏せてそっとその感触に集中した。
母の様な優しさであり、それでいてまた違うそれは酷く愛おしいものだった。

「だけど、人は幸あらば不幸もある。そんな時には今の様に泣けばいい。
私が胸を貸して上げるから、この手で撫でてあげるから思う存分吐き出してしまうといい」
「は、い・・・」

誰かも判らぬその人の言葉は単なる慰めだったのかもしれない。
苦しんで行き場を失くした可哀想な私を憐れんだだけなのかもしれない。
だけど、それが私の救いに為った事は確かだった。
私は瞳を伏せたまま疲れ眠りについてしまい、
再び瞳を開けた時にはその人の姿はなく、何故か自室の寝台の上だった。
あの女人が運んでくれたのかとも思ったがもしかすると全てが夢だったのかもしれないとも思った。

「あ・・・」

だが、そんな私の考えを否定するかの様にふわりと頭から桜の花弁が落ちてきた。

「やっぱり、夢じゃない・・・」

そうなるともしかしてあの人は本当に桜の精だったのかもしれないなと思って小さな微笑を浮かべた。
そして、朝議に出るべく、身支度を整えて部屋を後にすると丁度呂蒙殿が通りかかった。

「これは呂蒙殿、おはようございます」
「おお、陸遜か―――うむ、今日は随分とすっきりした表情をしているな」
「え・・・?」

呂蒙殿の言葉に対して驚き、私は瞬きを数度繰り返す。
呂蒙殿はそんな私を見て笑うと更に言葉を続けた。

「何だ。気付いていないと思っていたのか?何を悩んでいたかまでは知らんが顔に充分出ていたからな」
「そう、だったのですか・・・」
「ああ、本当は昨夜訊ねるつもりでいたのだがな。姫が自分が聞いてみようと言ってな」
「姫とは尚香様がですか・・・?」

姫と言われて思い当たるのは尚香様だったのでそう訊ねると予想と反して呂蒙殿は首を横に振った。

「姫と言っても陸遜はまだ会った事がなかったな。暫し、病の療養の為に城から離れてらっしゃたからな」
「えーっと・・・?」
「何を話しこんでいるのだ?呂蒙」

話が呑み込めないでいると聞き覚えのある凛とした女性の声が呂蒙殿の背後から響いた。
そして、呂蒙殿が振り返り、露になったその女性は昨夜、確かに会ったあの女性だった。
暗がりだったとはいえ、確かにあの女性だったと確信できた。
纏う雰囲気が昨日と変わらぬものだったから。

「これは、姫。丁度良かった今、貴女の話をしていた所なのです」
「ん?ああ・・・そういえば自己紹介する前に彼は寝てしまったからな」
「あの、やはり昨夜の方ですよね?」

朗らかに笑う姫と呼ばれたその方におずおずと訊ねると笑顔のまま首を縦に振った。

「改めてだ。権や尚香の姉であり、策兄上の妹だ。宜しく頼む」
「私は陸遜、字は伯言です。こ、こちらこそ宜しく御願いします」
「ああ。そういえば呂蒙。父上が何やら用があると探していたぞ?」
「本当ですか?ならば、私は一足先に・・・陸遜、後は頼んだぞ」

呂蒙殿は姫の言葉に駆け足でその場を後にして行った。
残された私は昨夜の失態を思い出して、どうしたものかと頭を悩ませる。
すると、姫がくすりと笑いを上げて口を開いた。

「昨夜の事を気にしているなら気にするな。偶々話を聞いて気になっただけだからな。
所謂、好奇心だ。好奇心。でも、何かあったら私に言いなさい。これは姫としての命令」

冗談を含ませながらも私を気遣ってくれているのだと判るその言葉に私は胸が熱くなり、笑顔を浮かべて頷いた。
それに満足した様に姫もまた笑みを深めると私は御礼を言わねばと言葉を紡いだ。

「あの、姫・・・」
「あ、待った。姫では尚香とややこしいだろう。
で良い。ついでに姫もいらぬ。もう、姫と言う程の歳でもないしな」
「で、ですが・・・」

姫の申し出に困り果てていると姫は仕方ない、と呟く。

「では、二人の時だけでいいのでと呼ぶ事。陸遜にだけ特別に許す権利だぞ?」
「え?あの、それって・・・」
「質問は受け付けないからな。では、朝議に行くぞ」

華が綻ぶ様な笑みを浮かべて姫は私の手を引っ張り歩き出した為、
問う事はそれ以上出来ず、私はただ、頬を朱に染めるばかりだった。


春の夜の夢の如く神秘的な精霊姫。
(向けられる好意は実に嬉しいものだと感じる私がそこには居た)
(きっと、桜花の魔力に魅了されてしまったのだろう)