蝉時雨の終わりと共に貴女は散っていった。
忘れないで忘れないでと言って。
覚えていて覚えていてと言って。
最愛の貴女はいなくなった。






最果てと最愛と







起きる事すらままならなくなった貴女は白いシーツの海の中に埋もれていた。
汚れ一つないシーツよりも果てしなく白い肌と黒絹の髪のコントラスト。
それがより一層彼女の儚さを引き立てていた。
外で響く蝉時雨と鳥達の鳴き声。
それ以外に響くのは互いの呼吸音だけ。
彼女の呼吸はか細く、今にも止まってしまいそうだった。
握っている手も以前より細くなってしまい、まるで作り物なのではないかと思うほどに温もりも薄かった。
彼女の灯火が静かに静かに終わりを迎えようとしているのが手に取るように判ってそれを誤魔化す様に手を握る力を強めた。
失くしたくない、失くしたくない。
どうか、どうかと願うけれどそれが無理な事は百も承知していた。
それでも願うのは愛しているからなのだろう。

「サガ」

ふいに彼女が瞳を開いて自分の名前を呼んだ。
小さな小さな声に必死に耳を傾けて彼女の言葉の一字一句を聞き漏らさないとする。
交じり合う青と黒の絹糸。
離れてしまったら全てが終わる様な気がした。

「どうかしたか?
「いえ、風が涼しくなってきたなと思って。もう、夏も終わりね」
「そうだな。蝉たちの鳴く声も聞き納めになるな」

決して負の感情を悟られまいと笑顔を浮かべて努めて穏やかに返す。
彼女はそんな私に「そうね」と微笑みむと窓へと視線を移した。
青々とした雲一つない青空が一枚の絵の様に窓の外に広がっている。
それを見て彼女はふと笑みを深めて、静かに語り出した。

「夏も終わり、秋になる頃には私も朽ちているのでしょうね」

淡々と、余りにも淡々と紡ぎだされた言葉に何も返せず沈黙してしまう。
そんな事を言わないでくれと何度も心の中で叫ぶけどそれが言葉になる事はなかった。
余りにも余りにも苦しくて。

「サガ。私は幸せだったわ。人よりも短いこの一生が」
・・・」

本当に幸せそうな笑みを浮かべて瞳を伏せて噛み締める様に呟く声。
今すぐに消えてしまいそうな彼女の声に押し寄せる悲しみ。

「数多の人と出会い、別れを繰り返し。その繰り返しの中で貴方と出会えて愛し合えた」
っ・・・!」

もういい。
何も言わなくていい。
別れの言葉など聞きたくない。
まだ、共に居たい。
いつかは死が二人を別つと判っていたけれども何故こんなにも早かったのだ。
笑顔の彼女とは裏腹に目が霞む。
流れる雫は止め処なく止め処なく頬を濡らす。

「貴方を愛して、貴方に愛されて幸せだったの。本当の事を言えばもっと共に居たかったけれどそれでも幸せだったわ。私は」

彼女はそっと私に視線を戻してそれこそ彼女の言葉通りとても幸せな顔で微笑んだ。

「だから、泣かないで。死しても私は貴方と共にあるわ。貴方が忘れないで居てくれる間は私は貴方の心で生きるわ。
どうか覚えていて、私が貴方を愛していた事を。どうか忘れないで、共に過ごした愛おしくも幸福な日々を。どうか、お願い」
「・・・忘れる筈がない!忘れてなるものか!」

忘れれる筈もないのだ。
幾度季節が巡ろうとも共に過ごした幸福に満ちた思い出はいつまでも残り続けるから。

「ありがとう。貴方に忘れられてしまったら私は本当に死んでしまうから」

肉体だけではなく、存在が死んでしまうと彼女は寂しげに微笑んだ。
そして、手をゆるゆると私の頬に伸ばすその手は力が入らずゆっくりとしか上へと上がらなかった。
その手をそっと取り、自分の頬に添える。
彼女がそれに満足そうに微笑んで乞うた。

「キスをして。サガ」
「ああ・・・」

恥じらいなどそこにはなく、私はそっと触れるだけのキスを落とす。
神聖な儀式の様なその口付け。
そこには確かに刹那の永遠があった。
唇を離せば彼女はそっと手を下ろして瞳を閉じた。
それが、彼女の最後の言葉と口付けだった。
閉じられた瞳は再び開かれる事はなく、鼓動だけを数日刻み、彼女は眠ったそのままに逝った。
亡くなったその日、最後の言葉を聞いたあの時の蝉時雨の変わりに秋雨が涙の様に降り、音を響かせていた。
埋葬されるその日も雨が降り続けていて、まるで空すらも彼女の死を嘆いているようだった。
喪服の黒を纏い、その雨の中、頬を雨と涙が濡らす中、ただ、ただ、彼女の全てが離れないでいた。
墓前で一歩も動けない私がふと思い出した彼女の言葉。

『貴方に忘れられてしまったら私は本当に死んでしまうから。』

嗚呼、そうだ。
私にはまだ生きてやらねばいけない事がある。
生きて生きて、彼女の事を忘れずに生きて、彼女の存在を死なさぬ様に生きなければいけない。
それが、残された私が逝った彼女に託された事。
墓前で瞳を伏せて空を見上げると静かに雨が止み始めた。
立ち去る時には彼女の墓前を陽の光が照らしていた。




最果てで待つ君の元へ逝くまでは。
(このたおやかな恋と愛の思い出を胸に生きていこう。)