その日は兎に角、朝から最低だった。
頭は脳を直接揺さぶられる様な不快感、視界は歪み時々暗転。
御陰で朝議までに何度も壁や柱にぶつかり、生傷だらけ。
何とか朝議を終えて、鍛練に行こうとした所で軍師である司馬懿に呼び止められた。
早く一人になりたかったのだが仕方なく体を司馬懿の方に向けようとした途端。
全身から力が抜けて頭から地面へと突っ込んでいた。
近付く地面をぼんやりと眺めながら
嗚呼、痛いだろうなぁと呑気に思い、衝突の衝撃を耐えようと瞳を伏せた。







月に溺れた







「――――?」

いつまで経っても襲ってこない衝撃を不思議に思い、
気力を振り絞り瞳を開けると私の腰に腕を回して誰かが体を支えている。
一体誰がと酷く回転の悪い頭で考えるが朧気な思考では全く理解出来ない。

「おい!おい!!大丈夫か!?」
「司馬懿、か?」

響いた声でそう言えば先ほど私を呼んだのは他でもないこの男だったと思い出す。
司馬懿は私の体を抱き起こしてくれるが
手足どころか体中の力が入らず、そのまま司馬懿の胸にもたれかかってしまう。
司馬懿はそんな私の顔を覗きこむと目を見開いて、私の額に慌てて自らの手を重ねた。

「熱があるではないかっ!」
「ねつ・・・どうりで気持ち悪かった、訳だ・・・」
「気持ち悪かったならば、休んでいればよかろう!」
「それすら、判んないぐらい・・・ぼんやりしてたから」

怒られながらもそう答えると急に寒気が体に襲いかかってきた。
言われて初めて自覚して体が不調だと訴えかけてきたのだろう。
それにしてもこれはちょっと洒落にならない位、立ってられない。
また、視界が暗転仕掛けた瞬間、ふわりと体が浮遊感に包まれる。

「う、わ・・・」
「落ちるからじっとしておれ」
「え・・・あ?」

聞いた事のない位優しい声が響いて
私はゆっくりと顔を上げれば心配そうに顔を歪めている司馬懿が目に入った。
嗚呼、こんな顔もするのかと呑気に思いながら
優しく真綿で包むような感触に瞼が重くなっていく。

(相手は司馬懿なのになぁ・・・どっちかというと苦手な人物な筈だったんだけど・・・)

そう、司馬懿はどっちかと言えば私は苦手な人間だった。
どこか冷めていて、温もりのない冷徹な印象を勝手に持っていたから。
でも、どうやらそうでもないのかなと沈みゆく意識の中、そう思った。





「あ、れ・・・私、どうしたんだっけ?」

目が覚めて体を起せばじっとりと汗で濡れている肌に気付いた。
嗚呼、そう言われてみれば私は熱を出して、司馬懿に部屋まで運ばれたのかと思い出す。
窓を見れば月光が眩く、真夜中かと体を起して、寝台の縁に腰を掛けた。
喉の渇きを覚えて辺りを見回せば、寝台の傍に水差しが置いてあるのが目に入り、喉を軽く潤す。
一息吐いて、身体をまた寝台に横たえた途端、かたんっと扉から音が響いた。
一体なんだろうかと首を傾げて身体をもう一度起すとそこには司馬懿が立っていた。
司馬懿は起き上がっている私を見て少し瞠目するがすぐにまた何時もの表情に戻って此方へ近付いてきた。

「起きていたのか?」
「あ、うん。まあ・・・喉が渇いて・・・」
「そう、か。熱は?」
「まだ少し熱いけど大分下がったみたい」
「そうか。ならいい。邪魔をした」

淡々とした口調で訊ねるだけ訊ねると踵を返して、
去ろうとする司馬懿を私は無意識に服を掴んでその場に留めた。
司馬懿は驚いた様に目を見開いて私を見下ろす。
私は去ろうとする司馬懿を止めてどうするつもりだったのだと自問自答する。
普段、あまり話した事もないのに
訳の判らない行動に出た私は取り合えず思いつく限りの言葉を並べた。

「その、礼をまだ言ってなかっただろう?ありがとう」
「運んできた事か?別に、目の前で倒れたまま放置する訳にも行くまいと思っただけだ」
「でも、運んでくれたのは事実だしさ。本当にありがとう」

瞳を真っ直ぐ見てそう告げると司馬懿は目を逸らして、別に、構わんと小さく呟いた。
そして、再び二人の間に沈黙が流れる。
何かを話さなければと思うが何も思いつく事がなく、焦る。
そこで、私はふとある事を思い出す。

「そういえば、何で司馬懿はこんな時間にここに居るんだ?」
「―――っっ!そ、れは・・・」
「それは・・・?」
「っっ!!単に様子が気になったから休憩がてらに見に来ただけだ!文句があるか!?」

不意に大きな声を上げられて私は大きく瞬きを繰り返すといや、別にと返した。
そして、また沈黙が辺りを包む。
どうしたものかとちらりと司馬懿を見れば
司馬懿は頬を朱に染めて何やらぶつぶつと小さな声で呟いていた。
何だかその姿が可愛らしくて思わず
くすりと笑いを漏らすときっと睨みつけられて私は視線を逸らした。
もしかして、機嫌を損ねてしまったかと
不安げに視線を戻すと司馬懿は溜息を吐いて私に言った。

「取り合えずもう用がないなら私は行くぞ。貴様も本調子でないならちゃんと寝ていろ」
「あ、うん・・・」
「判ったならいい。ではな」

何処か気遣う様な言葉を聞いて私は寝台にちゃんと身体を横たえるが顔だけを扉の方に向けた。

「あのさ!」
「何だ?まだ何かあるのか?」
「いや、別にそう言う訳じゃないけど・・・
その、心配してくれて本当にありがとう。司馬懿もあんまり無理をせず程々にして寝なよ?」

司馬懿はそんな私の言葉に本日何度目か判らない驚きに目を見開いてこちらを見た。
が、それはほんの一瞬で今度は私が驚かされる様な表情を浮かべて見つめてきた。

「お前も早く寝て、早く治せ。ではな」

ぱたんと扉が閉まった途端、私は身体を起して両手で頬を包んだ。
頬に熱が集まってきてまた熱が上がってきたのではないだろうかと思う程の熱さが全身を駆け巡る。

「あれは、反則ではないか・・・?」

普段は無表情か眉を顰めている表情しか見た事がなかった為に
忘れていたが司馬懿という男は美麗な男なのだ。
そんな顔で目を細めて、穏やかに微笑まれたならば
どんな美女や美形にだって負けない微笑みになるというもの。
再び寝台に倒れ込み、瞳を伏せるが瞼に焼きついた司馬懿の笑顔が離れる事はなかった。


鋭利な三日月も時には満月の様に微笑むもの。
(嗚呼、明日から私はどんな顔で司馬懿に会えばいいのだろうか)