数年程前から実家の旅館を贔屓にしてくれている小説家が居た。
書店でもよく特設コーナーが出来るぐらい名の知れた作家で、
俺も一度著書を読んだ事があったが20代位の若い女性だとは
露とも知らず、聞かされた時は酷く驚いた。
その人を知ったのは人手が足りず接客を偶然任された時の事で、
今でも鮮明に覚えている。
食事を届けに部屋に入ると窓から見える紅葉を背に静かに佇んでいた。
その姿の美しさはどんな言葉でも表現しきれない、あえて言うならば一枚の絵画のようだった。
黒曜石の瞳が俺を捉え、微かな笑みを浮かべ、鈴のような声が耳を侵食していった。
たった一言挨拶をされたその瞬間、心すらも侵食され、俺は恋に落ちたのだった。






紅色の憧憬







年月は経ち、高校三年の時間も残り少なくなったある日。
また、彼女が実家の旅館に滞在すると聞き、
彼女の滞在期間の外泊届けを寮に出し、慌てて実家へと戻ってきた。

(ああ、早く逢いたい。この所は多忙で帰省できず、逢えなかった事も多かったからな)

あの日以来、俺は彼女が滞在する事を聞くと
少しでも共に居る為に実家へ戻り、彼女の世話係を自ら申し出ていた。
その為、俺が彼女に恋をしている事は家族はおろか従業員達、皆に知れ渡っていた。
しかし、そんな事すら気にならない程、俺は彼女への恋心を募らせていた。
未だに想いも伝えられないままだが客と従業員という関係ではなく、親しい友人のような間柄にはなれたと思う。
雑談に交えて、恋人の有無も確認したが居るなら一人でここには来ないと言っていたし、今も多分いないのだろう。
そこまで、判っていながらも中々一線を越えずにいるのは愛しさが募りすぎたせいかもしれない。

(だが、そろそろそうも言ってられんな)

高校生活も残り僅かで新たな道へ進み始める春まで残された時間はあまりに少ない。
確かな何かを残さなければこの恋は自然と失われていくのだろう。
どうせなら自分の想いにけじめをつけて終わらせたい。
そんな決意を秘めて、俺は何時もの通り彼女の部屋へと向かった。

「失礼します。お久しぶりです。さん」
「・・・ああ、久しぶりだね。尽八くん。
最近、忙しいと聞いていたから今回も君じゃないのかなと思っていたから会えて嬉しいよ」

変わらない彼女の落ち着いた口調と鈴の音のような声と優しい温かな笑み。
待ちわびた彼女の姿を見た事と思いもよらぬ歓迎の言葉に心拍数が上昇する。

(平常心だ。尽八。これ位で動揺してどうするっ・・!)

我ながら青いとは思うが心臓を落ち着かせるように少し深い息を吐くと彼女の傍まで寄った。
いつも到着した彼女の元へくるとお茶を入れて、共に少しの間語らうのが定番となっていたからだ。
今回も俺は普段の様にお茶を入れると彼女へと差し出す。

「ありがとう。・・・うん。やっぱり尽八くんのお茶が一番だ。この風景にはこれがないと始まらない」
「・・・っ!そう言ってもらえたなら何よりです」

淹れたお茶を飲みながらそう褒める彼女に先ほどよりも照れくさが込み上げてきて、顔が赤く染まるのを自分でも感じた。
意中の相手にそのような事を言われて、冷静でいられる程出来た男じゃないのだから致し方ない。
俺は、取り繕うように顔を引き締め、平静を装っていつも通り彼女の前の椅子へ腰を掛ける。
窓から見える空は夕暮れで紅く輝いていた。

「もう、高校を卒業する年になったんだな。尽八くんも」
「・・・何だかご老人の様な言い回しですよ。さん」

苦笑をしながらそう返すと釣られる様に彼女も愉快そうに笑う。

「仕事が仕事だからね。隠居生活をしているようなものだから仕方ない。尽八くんは、高校生活は楽しかったのか?」
「・・・ええ、楽しかったですよ。本当に青春を謳歌したと思える三年間でした。
部活に汗を流し、様々な友人関係を築いて、いいライバルにも出会えた。充実し過ぎる三年間でした」

思い返すと本当に色々な三年間があったなと思う。
どんな些細な事ですらどれも今となっては大切な思い出だ。
そう思う俺の顔をじっと見つめるとさんは俺の頬にそっと触れた。
唐突な事に物思いに耽っていた俺は肩を揺らして、彼女を見た。
彼女はさして気にせずにただ、満足そうな微笑を称え、紡ぐ。

「とても良い顔をしてる。あどけない少年だった頃よりもずっと成長した青年の顔だ」
「そう、ですか・・・?」
「ああ。本当にそう思うよ。何だか残念だな。私が君と同じ年齢ならば成長過程も見れたかもしれないと思うと非常に残念だ」

俺の頬を軽く撫ぜながらそう告げる彼女は心底がっかりした様子でそれが少し可笑しかった。

「なら、俺たちはこうやって話せてなかったかもしれませんでしたし、俺はこれでよかったと思いますよ」
「まあ、それもそうだね。それに、出会った当初の可愛らしい君を思い出せばその君に逢えないのは惜しい」

何を思い出しているのか瞬時に理解した俺は苦い顔を浮かべる。

「それは忘れてください。俺が初めて逢った時に食事を転んだ話なんて・・・」
「無理な相談だな。私は記憶力がとてもいいから一度記憶したものが消える事はないんだよ」

ぽんぽんと頭を撫で、意地悪く撫でる彼女に嘆息するが知らぬ存ぜぬといった様子だ。
すると、彼女は俺の頬に伸ばしていた手を引いた。

「ああ、そうそう。尽八くんは卒業祝いは何がいい?」

急に変わった話題に驚き、首を傾げて再度問い直した。

「卒業祝い、ですか?」
「そうだよ。折角の門出だ。もう、浅い仲でもないし、祝わしてもらいたいんだよ」

彼女は心から祝福したいと思ってくれているのが目の前の表情で見て取れた。
だが、急に言われても中々それに対する答えが見つからず、うむむむむと唸る。

「欲がないのだな。尽八は。まあ、思いついたらでもいいんだが今後はあまり会える時間も少なくなるだろう?」

突きつけられた言葉に俺は表情が強張る。
俺自身も理解していたことではないかと自分を叱咤するがどうにも頭の回りが悪い。
本人から現実を突きつけられた焦りだろうか。

(だが、俺は・・・さんの傍に・・・居たい)

そう、欲がないわけではない。
たった、一つ望む事はそれだけだった。
この人が俺を愛してくれて、永遠に傍に居てくれれば、それだけを俺は何よりも誰よりも、願っている。
焦燥からか酷く喉が渇き、ごくりと唾を飲み込む。
言わなければ、これはいい機会だと自分に言い聞かせる。
微かに震える唇をゆっくりと開き、一息つくと夏でもないのに額に汗が伝っている気がした。
そして、俺は意を決したように顔を上げる。

さん。実は一つだけ叶えたい願いなら、あるんです」

その言葉にさんはきょとんとした顔で伺う。

「ん?なんだ?私に出来ることなら叶えるが・・・」

何も気づかない彼女に俺はついに決意を固めて言った。

「俺は、さんの傍にずっと居たい。それを叶えてくれるなら俺はもう他に望むものなんてありません」

言った。
ついに、言ってしまった言葉に体が震えるのが判る。
驚いて目を丸くする彼女の顔が視界に入るがその後の反応が怖くて思わず下を向く。
暫く静寂を辺りが包み、どことなく居心地が悪い。
すると、表情の見えぬ彼女がぽつりと口を開いた。

「ふむ、そうだね。なら、私の旦那になるってのはどうだろうか?」
「・・・・・へっ!?」

予想斜め上をいった言葉に俺は間抜けな声を上げて、勢いよく顔を上げた。
いつもと変わらぬ笑みを浮かべて、もう一度彼女が言う。

「だから、旦那になるかい?」

繰り返された言葉ですら衝撃的過ぎてちょっと追いつけない。
いや、誰もこの返しは想像しなかっただろうし、無理もないと思うのだ。
何度も頭でその言葉を繰り返して、漸く理解した頃には俺は顔を真っ赤に染めて立ち上がった。

「な、ななな何を言っているのか分かっているのか!?」
「結婚する?って言ってるな。うん」
「いや、うんではなくてだな!?あー、いや、もう・・・むむむむむっ・・・」

あっけらかんと言われては返しようがなくて、俺は頭を抱える。
嬉しくないか嬉しいかで言われれば嬉しいが何か色々飛び越えてしまっていて、
いや、そもそも彼女が俺をどう思っているかすらこの場合定かではない。

「・・・・一つ聞いてもいいか?」
「ああ、なんでもどうぞ」
「それは、本気で・・・」
「本気だけど?」

質問を言い切る前に返されて言葉に詰まる。
やっぱり頭が正常に回っていないようで本当に理解が追いつかない。
一人百面相をしながらぐるぐる考えていると余程、顔が面白かったのか彼女が声を上げて笑った。

「はははっ!本当に面白い顔をして・・・!」
「わ、笑う必要はなかろう!?」
「いや、無理だね。ぷっ・・・」

しまいには椅子を叩いて、笑いだしてしまい、俺は何か腑に落ちないと少し拗ねる。
そんな俺を見て、彼女は漸く笑った時に出た涙を拭って向き直る。

「あー・・・笑い過ぎて腹が痛い」
「自業自得ではないか」
「ふふ、拗ねないで欲しいな。しかし、先ほどから口調が乱れているが動揺させすぎてしまったのかな?」

言われてみて敬語を使っていない事に漸く気づき、また恥ずかしさが込み上げる。
何か言い返そうとして口を開こうとするとその唇にちょんと人差し指が触れて封じた。

「敬語でない君はとても新鮮だね。それに距離が近くなったみたいでいい」

どういう意味かと尋ねようとしたが触れている指先が口を開かせてはくれなかった。
そして、彼女が続けて話を始めた。

「私もね。尽八くんには傍にいて欲しい。傍にいて、幸福を感じてしまっては望まずにはいれないだろう?」

そっと離れていく指先。
穏やかに微笑み告げる言葉にドクンと鼓動高鳴る。

さん・・・・」
「だからね。私は恋人で甘んじるよりも大人げなく、確約を求めたんだ。誰にも渡したくないから」

ずるい大人だろう?と苦笑するさんが俺にはもう、愛しくて堪らなかった。
ドキドキし過ぎてもう、何がなんだか判らないけれど、一つだけ言えることがあった。
俺だって渡したくない。
ならば、俺は決めるだけだ。

さん、本当に後悔、しないんだな?」
「それは尽八くんの方こそしないのかな?私なんておばさんだぞ?」
さんは綺麗だ。あの頃から変わらない」

そう、あの頃から俺の気持ちは変わらない。
否、あの時よりも俺は彼女に恋い焦がれ、求めている。

「順番とか、段階とか、もうどうだっていい。俺だけを見て、俺だけを想って、俺と一緒に生きてほしい」

だから・・・と俺は続ける。

「だから、俺と結婚してください」
「・・・うん。こちらこそよろしくお願いします」

予想にはしない結果だったけど、俺はもう我慢できなくなって立ち上がると
さんの手を引っ張り、立ち上がらせてそのまま勢いよく抱き締めた。
こんなにも近い距離で触れ合うのは初めてで、ドキドキと心臓が煩くて、
照れくさいけれど、それよりも幸せと嬉しさが勝って止まらない。

!大好きだっ!ずっと、ずっと伝えたかった。本当に愛してるぞ!」

今まで言えなかった言葉が次々と止まらなくて、そんな俺を見て彼女も嬉しそうに目を細める。

「うん、愛してるよ。私も」

初めて聞いた愛の言葉は更に、俺に新しい幸せをくれた。



紅色の憧れは深紅の絆となって薬指に宿る
(・・・婚姻届を見て、驚いたな。出逢った頃が今の俺と同じ歳・・・もう少し落ち着いた方がいいだろうか?)
(私が若年寄だから尽八くんはそのまま熱烈に愛を囁いてくれている方が嬉しいよ)(・・・っっ!?)