払い除けられた手よりも何よりも眼前に広がる悲哀に満ちた表情の方が痛かった。
何気なく訊ねた一言に殿は酷く動揺されていた。
少し考えれば判ったであろうに。
殿に過去を聞くと言う事は古傷を幾度も抉る様なもの。
まるで拷問の様に。






を繋ぐは骨の楔

第十六夜 龍の憂いを晴らすべく







「くそっ!!」

床に拳を力の限りぶつけて行き場のない苛立ちを落ち着かせようとする。
自分の愚かさが余りにも恨めしい。
殿にとっての過去がどれ程まで地獄だったか判っているつもりだった。
女の身である事、親子である事。
その全てが恨めしい程に母君を恨み、憎み、恐れている事を誰よりも理解しているのは自分の筈なのに。
全く持って愚かしい。

「某は・・・俺は、護らねばならぬというのにっ!!」

真逆の行いをしてどうするのだ。
だが、これで一つ判った事がある。
殿はこれから先もずっと過去を引き摺り続ける。
それは致し方がない事なのかもしれないがそれが果たして殿に不利益を与えるか。
今はまだ生存を知らぬ殿の母君がもし生存を知ったのならば殿に対してどんな手に出るか判らない。
もしかすると再び殿が傷付く結果に為り得る。
それだけは何としても、何としても防がねば為らん。
殿には笑顔で居て欲しいのだ。
優しく柔らかく綺麗な笑顔を何時までも浮かべていて欲しい。
先程、傷つけてしまった某が言う事ではないかもしれないがそれでも愛おしいから。

「佐助ぇ!!佐助は居らんか!!」

思い立ったならば即座に行動せねばと思った某は立ち上がり辺りに居るだろう佐助を呼びつける。
すると、一時置いて風が強く凪ぐと大木の上から音も立てずに降り立った。

「真田の旦那、大声出してどうしたのさ」

今は特に近隣との戦の気配もない為、呼び出された佐助は不思議そうな表情を浮かべていた。
そんな佐助を一喝する様に少し大きめの声を張り上げて告げた。

「御主にやって貰いたい事がある」
「・・・なんか、穏便な話じゃなさそうだね。で、要件は?」

物分りのいい佐助は一瞬で真剣な忍としての顔を見せた。
その様子に頷くと某はゆっくりと静かに口を開いた。
凪いでいた風が止まり、静けさが増す中、某の声だけが響く。

殿と政宗殿の母君である義姫殿の動向を探れ」
「・・・義姫、ね。まあ、いつかそう言って来ると思ってもう既に何人かに動向は探らせてますよ。旦那」

佐助の根回しの早さに思わず目を丸くして口をぽかんと開いた何とも間抜な表情を浮かべてしまった。

「・・・旦那って俺の事どう思ってたわけ!?何かその如何にも意外って顔止めてよね!」
「いや、すまん」
「そこ、謝らないで欲しかったなぁー・・・まぁ、いいけど。取り敢えず今はこれと言った動きはないよ。今の所はね」

やけに語尾を強めて言う佐助に某は眉間を寄せて首を傾げる
何やら含みのある言い方が気になったのだ。

「勿体ぶらずはっきりと言え!」
「・・・じゃあ、言うけどまだ確証があるわけじゃない事前提で聞いてよ」

そう佐助は言うも佐助は普段から無駄な情報は口にしない奴である。
その佐助が決定打にすべき事柄がなくとも口にするという事はそれなりの真実が含まれているからであろう。
某は静かに聞き入った。

「義姫はちゃんの生存を何故か知っている。それもこの武田の養女となっている事も」
「・・・それは真か!?」
「いや、だからまだ決定的な確証はないんだって!ただ、有力な情報だとしか言えないの!
まあ、それだけなら良いんだけどそれを聞いた後に義姫は急にぱったりと表に出なくなった様なんだよね」

散々政治云々で口を挟んでいた義姫が表に出なくなった事を誰しもが不振に思うだろう。
それもだ。
殿が生きていると知った途端である。

「そこから考えるに何かを画策しているのが妥当じゃないかって話。まあ、目立った動きはないから何とも言えないんだけど。
取り敢えず何かあれば確実に武田にも火の粉は飛ぶと考えて間違いなさそうだからもう少し人数増やして探らせるけどね」
「そう、か。ならば佐助に全ては任す」
「はいはいっと。それにしても・・・」

話の方がついたのでもうこの場から去ると思っていた佐助がふいににやにやと笑いこちらを見て来るのを見て某は首を傾げた。
だが、この表情を見ただけでも何か嫌な予感はした。

「何かまだあるのか・・・・?」

「いーえ、単に旦那も漸く男になったんだなぁーって思ってさ。
少し冷静さも出てきたし、ちゃんが来てから旦那も成長したよね」
「そ、それとこれとは関係なかろう」

まさか殿の事とは思ってもいなかったので若干声が上擦る。
初めは恥ずかしさから顔を染めたがよくよく考えれば今とても気まずい状態なのだと思い出し、一気に気分を下降する。
その様子に佐助が慌てた様に某に声を掛けてきた。

「ど、どうしたのさ?幸せそうな顔したと思ったら急に暗い顔になって・・・もしかして、ちゃんと喧嘩でもしたわけ?」

槍で心臓を刺されたのではないかと思う程、的を射た佐助の言葉に尚更気分が落ち込む。
ただの喧嘩ならばよかったがよもや不用意に過去に触れてしまったなどどうすればいいものかと一人何も口に出来ず悶々とする。
すると、流石は忍と言うか佐助は大体事情を察した様で頬を掻きながら苦笑を浮かべた。

「旦那、取り敢えず悶々と考えずに会いに行ってみれば?ちゃんも落ち込んでるかもしれないしさ」
「だが、しかし、某が今顔を合わせてもいいものか・・・それよりも既に嫌われているかもしれぬ。そうなれば、俺は・・・」

確実に死ねると思い至ってその場に膝を折る。

「旦那ー!一人称が変わってるから!ほら、もうくよくよしないでさっさと会いに行ってきな!」

無理やり立たされて背を押されるがやはり行くのは躊躇われる。
しかし、いつまでも気まずいままなど正直言うと耐えられない。
それを思い、溜息を吐くと一度立ち止まって伊を決する。

「判った。会ってくる」
「よーく言った!旦那!思い立ったら吉日!さっさと会って謝っちゃいなよ」
「う、うむ。気は重いが行って来る」

重く圧し掛かる憂鬱に押し潰されそうになりつつも殿の部屋へと向かう。
一足進む度に過ぎる不安を振り払いながら進み、漸く襖の前まで辿り付いた。
だが、声がそこから中々出ない。
何と言えば良いのだろうかと自分でも似合わないと思う程、試行錯誤する。
迷えば迷うほど訳が判らなくなり糸が絡むが如く、複雑になる思考に苛立ちを覚えて勢いのまま声を掛けず襖を開いた。
すると、目の前に殿の顔が間近に広がり、思わず襖を再度勢いよく閉じる。
ちょっと、困惑しながらもう一度開けると同じく驚いた様に瞳を丸くしている殿の姿があった。

殿・・・」
「え、あ、はい・・・どうか、されましたか?」

驚きながらも妙に冷静な某と殿は互いに見詰め合う。
いや、そもそも間がいいのか悪いのか判らぬ時に襖を開いてしまったと微妙な空気に気まずさを噛み締める。
しかし、ふいに殿を見てみると薄っすらと残る涙の跡が判る。
嗚呼、やはり泣かしてしまったと後悔の念に駆られながらその頬に手を伸ばした。
指先が当たると殿は肩を揺らして驚き反射的に瞳を閉じられる。
某はそれに一瞬触れる事を躊躇うもそのまま頬に触れた。
伝わる温もりに安心感を覚えて、某は申し訳なさと安堵から複雑な笑みを浮かべた。

「泣かしてしまった。守ろうと誓っていたのに。某の・・・俺の不躾な発言のせいで。すまなかった」

思ったままに自分の心を吐露すると殿は目を大きく開き、俺を見るとそのまま顔を歪めて抱きついてきた。
突然の事に驚くよりもその体が震えている事に気づく。
気づけばそのまま抱き返し、頭をそっと撫ぜる。
そうしなければいけないと俺を何かが突き動かしたのだ。

「幸村殿。貴方が悪いのではないのです。私の脆弱な心が悪いのです。
ですから、気に病まないで下さい。そして、嫌わないで下さい。離れて行かないで下さい」
「離れれる筈がない。嫌える筈がない。俺はを手放す気など毛頭ないのだ。それ程に愛おしいと思っているから」

何があろうともそうであろうという確信が確かに心の中に息づいていた。
それ程までに何故愛し居てるのだと説明しろと言われても出来ないがただも魂が求めていた。
たった一人孤独の中を生きてきた美麗なる姫を。

の憂いは俺が晴らす。だから、もう気に病むでない」

俺はきっとこの腕の中の者を守る為ならば鬼にでも何にでもなれると思った。