再びその姿を目に焼きつける日が来ようとは思いもしなかった。
歳の衰えを余り感じさせぬ美貌と剣呑として冷酷な笑み。
視界にその姿を入れた途端、身体が否応なしに震えだす。
私の恐怖の象徴がそこには居た。
「愛おしい我が子、またこうやって会って話が出来るとは思いもしませんでしたよ?」
「―――っ!母、上っ!?」
龍を繋ぐは朱骨の楔
第二十一夜 恐ろしき鬼女
母は私の恐れなど知らぬ様に近付いてそっと頬を撫ぜた。
労わる様なその仕草が逆に私の恐怖を膨らませて蛇に睨まれた蛙の如く、瞬きもせずに固まった。
「元気そうで安心しました。母はいつもそなたを想っていましたよ?
あの醜き男がそなたを死罪にした時の母の苦しみ、悲しみと言ったら死を思う程に辛きもの」
初対面の人間ならばあっさりと子を想う優しき母だと思ってしまうだろう。
だが、私は恐ろしさしか胸に降り注ぐ事はなく、声を発する事も出来ぬまま母の話に耳を傾けた。
「でも、もう安心して良いのですよ。そなたはこれから松永久秀殿と夫婦になるのですから。
そして、伊達もこの母が立派に建て直します。もうそなたが憂う事など一つもないのですよ」
にっこりと微笑み嬉しげに話す母に私は顔を真っ青に染めた。
母は本当に兄上を殺して自分が伊達を動かすのだとまだ揺ぎ無く思っている。
何故、そこまで自分が腹を痛めて生んだ子を憎めるのだろう?
何故、自身の子をそこまで愛せないのだろう?
理解の範疇を超える欲望に生きる母は人ではないような気がして慄いた。
気が遠くなりそうな恐怖に体が後ろへと倒れそうになったがそれを誰かが抱き止めた。
一体誰がと振り返ればいつの間にかそこには松永が居た。
松永は私を安堵させる様な笑みを浮かべて母に向かってこう言った。
「義姫殿、はまだこの城に来て間もない。どうやら体調が優れぬようだ。
どうか今日の所は下がって貰えないだろうか?後はこの松永が御伝えしておこう」
母は松永の言葉を聞き、別段気を悪くする事もなく、むしろ笑みを浮かべた。
「それもそうですね。では、私は下がらせて貰いますよ」
それだけを残すと静かに部屋を後にする母。
姿が完全に見えなくなった所で私の全身の力が抜けてそのまま松永に体を預けてしまう。
未だに震える手を見て両手を祈る様にきゅっと握り締めた。
すると、松永があまりに力の入った両手を割り、頭上から優しい声が降る。
「それ以上、力を入れては傷になる。握るなら私の手を握っているといい」
「・・・ありがとう」
幾ら自分を攫い、母に加担している男だとしても松永の優しさは今の私には救いだった。
松永の手はとても冷たかったが今はその冷たさが恋しかった。
誰かに触れているそれだけでこうも心が安らぐものかと息を吐くと私はゆっくりと身を起す。
だが、すぐに何かを話そうという気にはなれなかった。
すると、松永はそんな私に向かって言葉を投げた。
「間もなく伊達へ攻め入る。そこにはきっとあの紅蓮の鬼も居るだろう」
「どうして、幸村殿が?」
「義姫を暗殺しようとしていた鼠を逃がしてしまったのでね。それによって情報が漏れたようだ」
大して焦りもなく告げる松永を私は理解出来ぬ様に見つめた。
だが、すぐに焦らない理由に思い当たる。
「もしかして、敢えて逃したのですか?」
「流石は聡明な武将だっただけはある。誘き寄せて一掃すれば事が一回で済むであろう?」
「もし、あの方々が死んだならば私は自害します」
「それでも私は一向に構わないがね。死体でも私は一向に卿を愛せるからね」
私の命は取引の材料にはならないと言う事を暗に言う松永に私は苛立ちに眉を顰める。
自分に何も出来ぬ歯痒さにぎりっと唇を噛み締めると松永は立ち上がった。
「卿の心は弱い。本当の安穏と幸福を求めるならばそれを侵す全ての者を滅せねば手には入らぬものだ」
「何を・・・」
「本当に欲するならば卿は自分の欲するものを手に入れる為に全てを滅すべきだと言っているのだ。
私は本当は実に優しい男なのだよ。だから、卿に二つの道を与えてやろう。これを受け取るといい」
そう言って投げて寄越したのは細長い袋。
中を見て見ればそれは一振りの刀だった。
「与える道の一つは欲するものを手に入れる為に全てを滅する修羅となる道。
卿ならその刀さえあれば充分枷も破壊出来よう?そして、全てを殺す事も出来よう。」
確かにこれ程の名刀ならばそれは可能だろう。
だが、松永は暗にこの刀を手に取り、脱出を企てた時点で城中の者は皆敵となると言う事を言っている。
それこそ、皆殺しにしなければこの城から出る事はままならぬと。
私はそれを良しとはしなかった。
それで済むならそうしたいがそれではあの母と同じだ。
生きてこの城を出た所でその事実に私は心を喰われるだろう。
そんな私の心を見透かしたように松永は言葉を続けた。
「残されたもう一つはこのまま大人しく傀儡と成り果てるかだ。その結果、卿の愛した男は死ぬだろうがね」
結局、私には道はないという事がよく判った瞬間だった。
生きる道は一つでそれは私が最も選びたくない母の血がこの身に流れている事を認めさせる道。
この男は陰湿だ。
それ以外、幸村殿を救う術はないと言って私を囃し立てる。
本当に、陰湿だ。
だけど、それが今の世の生きる術だという事も充分理解していた。
「やはり貴方は嫌いです」
「そうか。で、どうするのかね?」
「・・・私は幸村殿に全てを捧げた身、幸村殿の生を掴む為ならばこの心を壊してみせましょう」
きっぱりとそう告げて持っていた刀を鞘から抜き、松永へと向けた。
その瞳にはもう、迷いなどなかった。
松永はそんな私を見て、声を上げて笑った。
「ククッ!!実にいい眼をする様になった。
紅蓮の鬼に飼われた龍だがその爪は鋭く私の命を狩る力を有するようだ」
「何とでも好き勝手に言うがいい。私はもう、何も迷わない」
「そうか。ならば、好きにするがいい。
ただし、その爪振るうは卿を伊達の城に連れていってからにしてもらおうか」
予想外の言葉に私は向けていた刃を下ろす。
「どういう、事だ?」
「全てを決するは伊達の城でという意味だ。
あそこは卿の全て始まり・・・終わらせるも新たに始めるもあそこが良かろう?」
「・・・わかりました。それまでは大人しくしていましょう」
全てを決するは伊達。
私の始まりの場所――――そして、私の新たな始まりの場所となる。
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